丸目蔵人佐の墓(町指定有形文化財)

天文9年(1540) 八代に生まれる。当時八代は相良氏の支配下にありました。
若いころ上京して上泉伊勢守信綱に新陰を学び、四天王の一人となり、足利13代将軍義輝に演武を披露して感状を受けました。

その後、戦国の武将筑後山下の城主蒲池鑑虞や勇将柳川城主立花宗茂に新陰流を教え、授けた免状は今も保存されています。

やがて新陰流を離れて、より実戦的な剣法タイ捨流を創始、西国に広めました。
示現流を採用する前の薩摩藩はタイ捨流をお家芸とし、佐賀では藩主鍋島直正もタイ捨流を相伝したとされています。

あるとき、徳川幕府の指南役柳生但馬守宗矩に試合を挑み「龍虎相捧つは非、天下を二分せん」と説得された話や、巌流島決闘のあとで訪れた宮本武蔵に、タイ捨流二万の型を伝授したという話など、逸話も多く残っています。

晩年は一武村(錦町一武)に隠棲して、村人とともに七町歩余の山野を拓き、その田畑や水路や植林地は残って今に活用されています。
元和4年(1618) 、京都からローマに送ったイエズス会宣教師の報告書に、高潔で品格ある丸目蔵人佐の風貌が描かれているのは注目。

覧永6 年(1629) 没。89歳。墓は切原野堂山。墓前には追善のために村人の建てた石灯龍があります。

丸目蔵人佐の墓

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